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沖縄戦『集団自決・集団死』の真実を訪ねる旅
柴田 健(沖縄平和ネットワーク代表世話人・平和ネット首都圏の会)
「沖縄平和ネットワーク」と「平和ネット首都圏の会」主催の『2005年沖縄《戦跡・基地》の旅』が8月26日〜29日に実施された。首都圏は26日朝、台風が直撃することが予想され、前夜まで実施が危ぶまれた。今年のテーマは「沖縄戦『集団自決・集団死』の真実を訪ねる旅」である。平和ネットはこれまで以上に準備をされており、台風一過充実した企画であったといえよう。
この春「新しい歴史教科書をつくる会」が扶桑社版中学教科書の採択を進めるために、愛媛県・滋賀県・栃木県・東京都などで首長・議員たちとともに教育行政に攻撃をしかけた。結果は歴史教科書において採択率0.4%以下に終わっているが、東京書籍という文科省に近い教科書のシェアが際立ったことで、彼らの目的の一定部分は達成されたといえよう。
一方「つくる会」は、自らの弱点である沖縄戦における「集団自決・集団死」において、軍命はなかったという事実を確定させようと策動した。彼らは5月に沖縄戦跡の旅を実施し、6月4日には東京で神奈川県の教員の授業実践つきで集会を行っている。
その情報を掴んだ「首都圏の会」は、翌5日に作家下嶋哲朗さんの講演会を打って対抗している。
「集団死」をめぐっては石原昌家さんの「強制集団死」というすっきりした概念が打ち出され、従来の用語を使用する皆さんとの間で論争が起きている。「玉砕〜強制死」までの戦後の概念の移り変わりでこの事実の把握が可能となり、歴史認識を深めることになったのだろうか。
ツアーの狙いはまさに「軍隊というものは住民を守らない」である。前半は高文研刊書籍の著者である『「集団自決」を心に刻んで』の金城重明さんの渡嘉敷島現地での証言、『母の遺したもの』の宮城晴美さんの講演が中心であった。
後半は平和ネットの調査の成果を見せていただいた。読谷村「チビチリガマ」での下嶋哲朗さんの証言、平和祈念公園での瑞慶覧長方さんの南部における住民虐殺の証言、山城の「マヤ−ガマ」での津田則光さんのガイド、玉城村前川の民間防空壕群での新たな証言などから学ぶことができた。
金城重明さんには1995年に修学旅行での講演を佐敷町の旧厚生年金休暇センターでお願いしたが、生徒が金城先生の話についていけず失礼したことを今回改めてお詫びさせていただいた。『母の遺したもの』には宮城さんの母親が自決命令はなかったという証言をしたことが記述されており、それを「つくる会」が都合よく利用するという状況がある。宮城さんは「つくる会」からの攻撃、「強制死」概念の強い主張に対して適格に反論された。
最終日には辺野古でついに「タンカン」に上ることができた。「命を守る会」のプレハブ小屋を訪問し始めてから、何年が経過したであろうか。辺野古の運動継続で政治が手詰まりとなり、「キャンプシュワーブ内の陸上への普天間基地移設」といった揺さぶり案まで登場する事態の中で、貴重な体験であったかも知れない。
平和ネットの調査力はますます上っており、4半世紀沖縄に通っている筆者などでも学ぶことが多かった。そして初期の主な取り組み内容である、修学旅行ガイドも再編成していただけることを願っている。
【1日目】あの日の「現場」に立つ−渡嘉敷島で金城重明さんと
栗原 佳子(ミニコミ編集者)
危ぶまれた台風12号の影響もなく、私たちは予定通り昼の高速船で渡嘉敷島へと渡った。現地 参加者とあわせて総勢40数人。初日は、金城重明さんとともに、渡嘉敷島の戦跡を訪ねる半日の ツアーだ。
マイクロバスに分乗した私たちは、高台に差し掛かったところでいったん車外にでた。眼下に 広がる慶良間海峡。60年前の1945年3月23日、米軍は海上特攻の秘密部隊を配備した慶良間の島々を攻撃した。金城さんは、「アメリカの艦船がひしめき、船の上を伝って向こうの島に渡れそうなほどだった」と振り返る。
27日、米軍は渡嘉敷島に上陸。悲劇はその翌日起きた。当時の島の人口はおよそ1500人。うち300人以上が命を落とした現場近くには、いま「集団自決跡地」の石碑が建つ。ここで金城さんは、住民たちが死に追いやられていった極限の状況を証言した。
米軍上陸の夜。陣地近くに移動せよという軍命をうけ、約800人の住民が谷間に集められた。当時16歳の金城さんも、降り注ぐ艦砲射撃と豪雨のなか8キロ歩いてたどり着いた。1週間前、一部の青年たちに、軍の兵器係から各々2発の手榴弾が渡されていた。
「武器は天皇から授かったもの。非戦闘員に渡してはならないものです。それを手渡したのは軍と共に死を、ということです。軍官民共生共死。私たちも軍と運命を共にするという意識を植え込まれていました」。
翌28日の朝。「自決命令がでたらしい」という情報が流れた。しかし、手榴弾のほとんどは不発だった。皇民化教育で叩きこまれた鬼畜米英への憎悪は恐怖に変わった。鬼畜米英に惨殺されるくらいなら、いっそこの手で一思いにと、男たちは、愛する家族の命を断った。金城さんも最愛の肉親に手をかけた。
「殺意なき虐殺。軍が直接手を下さなかった虐殺。それが『集団死』の実態です」と金城さんはいう。軍による死への誘導、強制。軍による住民虐殺。「集団死」で生き延びた少年2人は米軍に治療を受けたとして処刑された。皮肉にも渡嘉敷島は住民がいち早く「集団死」を遂げ、一方の軍隊は最後まで組織的に生き延びた。
自由主義史観研究会はいま、「皇軍の名誉」を守ると称し、渡嘉敷島と座間味島での部隊長命令の有無に矮小化して、「軍命による『集団自決』はなかった」という主張を繰り返している。過去にも
あった「集団死の真実」を歪曲するネガティブキャンペーン。金城さんには、いまの一連の動きはどう映るだろうか。
「命令があったかなかったかは二義的な問題。軍隊によってそこまで住民が追い詰められたことが重要なのです。当時は住民も食糧も一木一葉にいたるまで軍の支配下。命令なしで『集団死』に追い込めます。それに、戦争は美化されるもの じゃない。間違った解釈で戦争の真実を曲げることはできないんです。住民の自発的な死とする考え方は、教科書裁判での文部省の発想です。基本的に、自由主義史観研究会の藤岡さんたちは、戦争できる憲法に改正し、戦争ができる国に右寄りに旋回してきた流れと一緒ですね」。
ちなみに私たちが訪ねた「集団自決跡地」の碑には、《住民は友軍を頼ってこの地に集結した》《「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」として》《祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした》などと刻まれている。まさに殉国美談。金城さんは「笑って死ぬことなど絶対なかった」と悔しさをにじませたが、そもそもこの碑は1993年、渡嘉敷村が建てたものなのだという。
私たちは、この碑の裏手の雑木林に分け入った。獣道は徐々に傾斜を増し、潅木につかまらなければ足元もおぼつかない。ひんやりとした空気。急斜面を降りたところに小川が流れていた。60年前、この川は何日も赤く染まったという。あの日の「現場」だった。
参加者の1人で、県立南風原高校教諭の宮城さんが、清らかな流れに、そっと花束を手向けた。宮城さんの母方の祖父母も「集団死」の犠牲者なのだ。この暗く深い谷間でおきた「殺意なき虐殺」。その究極の悲劇と、碑文との落差はあまりに激しかった。
【2日目】目が覚めた「生」への肯定−座間味島・大城さんの証言
恩地 真(厭戦庶民の会)
2日目。8月27日(土)。晴天。チャーター船で座間味島に着く。大城さんが来た。86歳。手押し車を押しておられるが、矍鑠としている。
港からマイクロバスで約5分。小学校の裏で降りる。寂れた雰囲気の中に野菜畑がある。約3分歩いて「忠魂碑」の前に来た。小森の中の、約5メートル四方の敷地だ。
「紀元二千六百年」の文字は「井上幾太郎陸軍大将」の筆になる。
残念ながら、大城さんの話が進むに連れ、方言が入って早口になり、ついて行くのが難儀になる。座る場所もなく、立ちっぱなしであることも加わり、辛くなる。そんな中で、私の記憶に明瞭に残った箇所がある。
《手榴弾を渡され、車座に座り、手榴弾のピンを抜いた。爆発しない。おかしいと思って、代わる代わる岩にたたきつける。それでも爆発しない。しまいには、手榴弾の形が崩れてしまって、どうしようもなくなった。
そこで、崖から飛び降りようと考え、残った女性たちみんなして、敵の攻撃をよけながら崖まで走った。ところが、崖の下には、アメリカのボートが沢山来ていた。飛び降りるわけにいかない。
私は、崖に着いたときには、手榴弾を爆発させようとしたときの力仕事と、走ってきたこととで、へとへとになっていた。もう、死ぬのが馬鹿馬鹿しくなった。ふと見ると、山桃が熟れていた。真っ赤を通り越して、黒くなっていた。その時、「生きたい」と思った。山桃を食べる。おいしい。自決しようとして一緒についてきた数人の女性も、私の方にやってきた。
「あんたたち、死ぬんでしょ。あっちへ行きなさい」と言った。しかし、それでもこちらについてくる。みんなで一緒に逃げた。》
私は、目が覚めた想いがした。ここには、生の肯定がある、と直観した。ここにこそ、国家による洗脳から逃れるための、貴重な示唆がある。
私は、前日の金城重明氏の証言を想起した。
《私たちは家族毎に集まって自決しようとした。しかし、手榴弾が不発だったり威力が弱すぎたりしたため、多くの者が自決に失敗した。
ふと見ると、50歳代と見える男性が、必死に灌木を切っている。程なく、その意図が分かった。彼は、棍棒を作っていたのだ。彼は妻、子供、親を滅多打ちにした。その凄まじい様子を見て、私は、兄と視線を交わし、以心伝心で、自分たちのすべき行動を悟った。…その後の記憶はハッキリしない。気が付くと、母、妹たちは、血まみれになって事切れていた。》
私は「兄と視線を交わし、以心伝心で」という言葉に、戦慄した。
毎朝登校時の奉安殿最敬礼等の儀礼・行事を通じて、「国家の神話」とでもいうべきものが「臣民」の意識を支配する。あとは、何らかの契機があれば、「臣民」は、「自らの発意」により、機械のごとき正確さを以て、命ぜられたことを実行する。
彼らは精神医学的には正常だ。それでいながら、一旦この「国家の神話」が発動されると、通常では考えられない残虐行為を成し遂げる。このメカニズムの中では、家族の愛情さえも仇になる。
大城さんの場合は、肉体を酷使している間に洗脳の持続時間が徒過し、そこに偶然、山桃が目に留まって人間としての自然な欲求が目覚めたからこそ、洗脳による呪縛を逃れたのだろう。
昼食のため高見山展望台に向かう。バスを降りたら、階段が延々と続いている。押し車に頼る大城さんは小さな草地に座り、「私はここで食べるから、みんな、展望台に行って」と言う。しかし、沖縄の強い日差しの中、木陰がない。
私は、図々しさを省みず、「負ぶってあげるから一緒に行きましょう」と申し出た。
私は、大城さんの脚が不自由であることを痛ましく思っていた。大城さんのような方にずっと長生きしてもらって、戦争を知らない若い人たちに体験を語り続けて欲しい、そのために、脚の障害は、若い者が補って克服してあげるべきだ、と考えたのだ。
大城さんをやっと説き伏せ、負ぶって展望台へ着き、弁当を食べた。晴天の下、緑の山々が広がり、コバルトブルーの珊瑚礁の海が映える。
誰かが言った。
「中国大陸から座間味島に転属された日本兵の手記に『ここは竜宮かと思った』と記されているそうだ」。
【2日目】問題を矮小化するな−宮城晴美氏 講演会
犬竹 正樹(川越市立川越高等学校教員)
座間味島は、海上挺進の秘密基地になり、島から疎開することも許されず、漁に行くのも軍の許可が必要になる。厳しい統制下に於かれ、勝手な行動は許されず、住民に光る監視の目も厳しかった。しかし一つ屋根の下で暮らすことによって家族同様の親しいつきあいを深めていく。敵艦に体当たりするまだ若い特別幹部候補生には、胸が締め付けられる思いであった。素直な島民、純真な若者たち、共に闘うのだという満足感がそこにはあった。食糧も軍に提供したが、文句を言うどころか一層の親しみ感があり、まさに「軍官民一体の戦闘協力」が最たる形で行われていた。
3月23日からの空襲と艦砲射撃、そして米軍の上陸は明らかとなり、25日夜伝令がまわる。「命令は下った。忠魂碑前に集まれ」と。開戦以来、毎月8日の大詔奉戴日の儀式が行われ、あるべき心得を教え込まれていた、その「忠魂碑」前で玉砕することに意味があった。全滅は玉砕思想と結びついた。住民にとって忠魂碑は、靖国神社に直結する荘厳な斎場であったからである。
結局は艦砲射撃が激しく、忠魂碑前の玉砕はあきらめて、8カ所で主に家族単位に変わる。玉砕していくのは、米軍上陸を見た人や伝令を聞いた人である。無学文盲の年寄りにはいなかった。このことからも、「米兵に捕まると…」と徹底的に教え込まれてきた、公民化教育の賜物であると言えよう。
そもそも「玉砕」命令を誰が出したのかを追求することは、命令そのものを出した者に責任を押しつけることであり、「トカゲのしっぽ切り」と同じで問題を矮小化してしまう。
階層的ヒエラルヒーの特色なのであろうか?これは現在の社会においても言えることだ。どの段階の誰に責任が所在するかで、他の者、それは同列階層だけでなく、上下に位置する者を含めてのことである。会社あるいは行政組織等である者に責任があれば、他の者にはないのか?責任は及ばないのか?残念ながら、不祥事等で発覚した問題などは、誰かに責任を押しつけ、あるいは誰かが責任をかぶり、問題を収める・矮小化して終わらせてしまう。沖縄返還協定密約についての問題も、新聞記者と外務省女性事務官との男女問題にすり替えられてしまった。また、事件に限らず多くの事柄で「喉元過ぎれば…」で熱しやすく冷めやすいというか、ある事柄がどういう形であれ、収束してしまうとそれ以上追求せず、興味関心も他のことにいってしまうというのが、多くの日本人の特質なのであろうか?
話を戻そう。住民のほとんどは、軍命令と思ったはずである。それまでの軍の命令は、兵事主任で防衛隊隊長である助役の宮里盛秀氏を通して伝えられていたからである。「忠魂碑前に…」も、宮里氏が悪意で発したわけではなく、それまでに教え込まれた通り、つまりマニュアル通りに遂行した。住民の取るべき手段をいち早く決定する役割があったのだ。そして米軍上陸は時間の問題であった時なのである。
軍の梅澤戦隊長が直接命令したものではなく、兵事主任である助役の宮里盛秀氏が“勝手に”命令した。 この事実を盾に、宮里氏の弟である宮村幸延氏を無理やり泥酔させ、詫び状に押印させたとのことである。
宮城初枝氏が苦しみながらも梅澤氏に真実を告げた時には、梅澤氏はおそらく純粋にありがたく思ったのだと思いたい。しかし、その後座間味島に訪れた時、神戸新聞に自分の無罪を主張する時、宮村氏に詫び状押印をさせた時、梅澤氏の思いは次々と変化していく。宮城初枝氏はこんなことを願ったわけではない。宮城初枝氏がどのような思いで真実を語ったのかをよく考えていただきたいものだと思った。
【3日目】チビチリガマの“闇”から
花島 晟信(平和ネット首都圏の会)
バスで宿を出、数十分走ると停まり、バックし駐車した。そこは砂糖黍畑も見える村はずれであった。バスをおりると交差点を渡り、20メートルも行くと左へ下りる石の階段があり、鉄の手すりがあった。下におりるとちょっとした空き地があり、よく見回すと碑があった。チビチリガマの入り口だった。これがチビチリガマか!という思いから、しばし佇んだ。入り口に立入り禁止の案内板があり、水入りコップが数個置かれていた。入り口の右側に彫刻家のモニュメントがあり、なぜか場違いの雰囲気がした。下嶋さんの説明があり、ここにこういうものが必要であろうか?という問いかけがあった。
中に入ると、人が立って歩けるが、奥へは身を縮めなければならない所もあった。奥に入ると、一室ぐらいの空間があり、そこに1945年3月末から4月2日にかけ、米軍の上陸に備え避難したのであった。そうなのである…。この空間が“集団自決”の現場なのだ。懐中電灯を消すと、漆黒の闇であった。何も聞こえず、入った人の吐息だけだった。しかし、私たちはこの闇から、何かを聞かなければならない。それは「集団自決」の呻きであろうか、恐れであろうか。しかし、それは聞こえては来ない。それは、私たちが、この闇から聞く能力があるかという問いかけに他ならない。
思えば「集団自決」という事実を、私たちヤマトンチュは知らされていない。いや、知ろうとしなかった。このチビチリガマの闇のメタファーを私たちがどう聞き、どう答えるか、問われている。
当時の人たち、戦争をしていた人たち、銃を持った人、銃を持たなかった人、戦闘に参加してはいなかった人、それぞれの戦争があり一つではない。とりわけ悲惨さは戦闘に参加させられ、銃を持たなかった人の死であろう。それは、どこの戦争でも、イラクでアフガンで・・・etc。
それが日本では、沖縄地上戦であった!「集団自決」は戦闘に参加していない人びとが、戦闘に参加させられて起こったことであった。沖縄の人たちは、紛れもなく戦争によって殺された。「集団自決」は米軍への恐怖を煽ることにより、自決へと追い込まれたのである。鬼畜米英として恐怖を煽り「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍人の倫理を非戦闘員に守らせようとし、軍の大切な武器である手榴弾を配布した。これは、自決が軍の意志であり、“軍命”であったことに他ならない。確かに此処の「集団自決」にそれぞれ軍命の「紙」や「声」はなかったかも知れない。しかし紙は焼かれれば残らず、声は消えてゆく…。これを「自発的」であるとか「軍命はなかった」とかいうことは欺瞞である。木を見て森を見ないことである。
今回の沖縄旅行は大変重たいものであり、疲れたが有意義であった。最終日の基地めぐり、辺野古の現実に身を詰まされ、今後の指針ともしなければならない。企画者、関係者に感謝したい。
【3日目】住民の叫びが聞こえてくる−マヤーアブを訪れて
小川 滋子(大東学園高等学校教員)
『戦跡・基地ツアー』3日目。山城のマヤーアブを訪れました。案内をしてくださった津多則光さんは、まずガマに入る前に、沖縄南部の地図を拡大した自作のパネルを使って米軍がどのように南下してきたかを説明してくださいました。
ガマの入り口には「このガマは、地元ではマ ヤーガマと呼ばれ、第二次世界大戦中の昭和19年11月ごろから20年3月の間、山城集落の住民約三分の一が避難し尊い命を守った場所であります。今でも地域住民は畏敬の念を持って『ガマ』を守っております」という文章が日本語と英語で書かれていました。
津多さんは黄色いヘルメットに懐中電灯を首から下げ、一見工事現場によく見られる姿をしていらっしゃいました。その装備の意味はガマの中に入ってすぐ分かりました。入り口はまず急な坂道を下ることから始まり、足元はゴツゴツ、また雨のせいか泥でぬるぬると滑りやすくロープに助けられながらようやく降りていける状態なのでした。
私たちは20名程度でしたが、実際中には、100名以上が入っていたということ。さぞ窮屈で人がひしめきあっている様子が想像されました。
津多さんは、ガマの中央に立って懐中電灯の明かりの中で山城の住民の避難生活の様子を語ってくださいました。攻撃の多い日中はガマの中に隠れ、夜になると畑に芋ほりに行ったり、1km先の井戸に水を汲みに行き、やがてその井戸に死体が浮かぶようになると、水の供給も困難になっていったとのこと。また排泄も外でということでしたが、中にはガマの中で排泄をしてしまうお年寄もいて、ウジもわくようになり汚かったということも語られ、生活に必要なことさえもままならない戦中の様子がひしひしと伝わってきました。
さらに『子どもが泣くとガマの住民が全滅になってしまう』といわれ、孫をおぶってガマを出たおばあさんの話や、障碍をもち、歩くことのできない人でさえも『軍が使うから』ということでガマ追い出されていった話など、戦争は弱いものほど犠牲になることを改めて実感させられました。
お話の後、全員の懐中電灯を消して真の暗闇体験をしました。懐中電灯があっても足元も覚束ず不安なガマのであるのに、当時懐中電灯もない真っ暗闇の中、腹をすかせ、悪臭に耐え、ましてや外は爆弾が飛び交い、いつ米軍に見つかるか・・・という生活をいつ終わるか分からないままに続けざるを得なかった住民たち。暗闇と静けさの中、津多さんの語りを反芻していると、まるで住民たちの叫びが聞こえてくるような重さを感じました。
暗闇体験を終え、ガマの外に出ると外はどしゃ降りの雨。津多さんが作ってくださった地図のパネルも雨でだいなしになってしまいました。通り雨とも思われ、ガマの中にいれば濡れずにすんだはずであるのにガマをあとにした私たち。どれだけガマの中が窮屈だったかを物語っています。案の定、その5分後ぐらいには雨は上がって晴れ間が見えていました。暗いガマの中とその中での重い出来事。晴れた空とあまりにも対照的すぎて、映画館から出てきたような気さえしてしまいました。でも今回の旅で見聞きしたすべては、60年前ほんとにあった出来事。沖縄戦についてこれまでほとんど知らずにいた自分を恥ずかしく思うと同時に、さらに学び、伝えていくことの大切さを感じさせられた旅でした。
【3日目】つらさを超えて実相を明らかに−前川の民間防空壕群
島村 晋次(松代大本営の保存をすすめる会)
前川の集落から少し離れた断崖を下って行くと崖の中腹に2メートル位の間隔でぽっかりと穴が開いている。約1キロにわたり59ヵ所もあるという。防空壕の入口は崩落している箇所もあるが、幅50センチ、高さ1メートル位で奥は少し広くなっていて隣の壕と連結している物もあった。
私たちは、玉城村文化財保護委員長の中村康雄さん、大城勲さん、中村トヨさん、中村照子さんの案内で防空壕を巡った。足場は悪かったが、それでも見学会のため村人が草を刈り、路の補修をしていただいたとのこと、「前川の民間防空壕群」とここで起きた住民「自爆」の実相を伝えたいとの村人たちの思いが感じられた。
この防空壕群が掘り始められたのは、1944年の十・十空襲以降で、空襲で那覇を焼け出された前川出身の男性が集落に戻り、各家庭が庭先に掘っていた壕を見て、「そんな壕ではだめだ」と崖に壕を掘り始めた。当時の集落174戸のうち、8割位の家庭が断崖に壕を造ったという。
住民が家財道具を持って防空壕に移動したのは3月23日。まもなく日本軍の壕追い出し命令が出る「日本軍が使うから住民は村の避難壕に移動せよ」。指定避難壕へ行くが、満杯のため戻ってきた。
2ヵ月後の米軍の攻撃が迫った5月30日、夜になって「米軍の姿が見えた」と騒ぎになり、歩けないお年寄りには「ガマを見つけたら呼びにくるよ」と言って、歩けるものは南部へ下っていった。壕には負傷者や高齢者、子どもらが残った。
そして皇軍から配られた自決用の手りゅう弾が壕内で次々とさく裂し、6ヶ所の壕で、20人余が「集団自決」の犠牲になった。大城勲さんが家族で隠れていた壕の隣の壕でものすごい爆発が起きた。今は入口がふさがれている壕の前で大城さんはつらそうに語ってくれた。「おばあさんが、爆風で横穴まで飛ばされ血だらけになっていた。即死でなかったおじいさんはうなり声をあげていた。さらに隣の壕では、日本軍の炊事を手伝っていた人が持っていた手りゅう弾による『自爆(自決)』で7人が亡くなっていた」。
壕を調査している玉城村文化財保護委員長の中村康雄さんは「日本軍は防衛隊などに手りゅう弾を渡すとき、攻撃用のほかに一つを「自決用」と言っていた」と指摘。防空壕群で「集団自決」に使われたのも、日本軍が防衛隊や義勇隊、看護婦に手渡したものだという。
玉城村では壕の存在自体、長らく知られることはなかった。まして、そこで「集団自決」があったことを語ることは、タブーとなっていた。しかし沖縄平和ネットワークの調査により沖縄戦時の壕の状況が明らかになるにつれて、体験者も重い口を開き始めた。
勲さん自身も、「集団自決」は軍の指示・誘導と思っていても、語ることはできなかった。「親せきの死を思いだすのはつらい。だが「体験者が語り継がないと伝えられない」と苦しみの中から語る決意をされたそもそも十・十空襲の苦い体験から生き残りをかけ、村中で安全な防空壕を造り避難したはずだったのに、「集団自決」というかたちで自ら命を断つとは、この悲しい矛盾はいったい何だったのだろうか。沖縄各地で発生した、軍民混在の場でおきた極限の戦闘地域だったのだろうか。住民の方々のつらい苦しい気持ちを考えても、その実相を明らかにすることが必要と考える。
【4日目】生身の人間の生活と闘いの場−辺野古テント小屋
前田 丈志(東京都・会社員)
ツアー最終日、辺野古の海上座り込み現場を訪れた。テント小屋の責任者である当間さんの計らいで10人だけが船に乗ることができた。平和丸で第2単管やぐらに向かう。今日は総勢39名が海上で座り込み行動に参加している。ほどなく現場に到着すると、ゴムボートに日焼けした晋くんの顔が見える。この東京出身の20歳の青年は辺野古に住みついて、海上座り込み行動に文字通り体を張って取り組む若者たちのリーダー格である。
昨年夏以来、本土の学生が辺野古に集まってくる。いまどきの若い人たちにも感心することがある。都会で孤独な大学生活をおくる日常とは違った、生身の人間の生活と闘いの場が辺野古にはある。おじー、おばーとの出会いも本土の若者たちには貴重な経験から学ぶ機会である。沖縄戦の話、命こそ宝という教え。防衛施設庁や業者との闘い。そして海人(ウミンチュウ)のたくましさ。ここは人間学習の場でもあるようだ。若者たちは都会に帰っても様々な取り組みで、辺野古を伝える試みを各地で続けている。
第2単管やぐらには、海上座り込み隊の最年長である平良悦美さんの姿もある。平良さんの呼びかけで、私たちも船から単管に飛び移ることにした。単管にも錆びが目立ち1年にも及ぶ時の重みが感じられる。知り合いの東京の学生の名前を言うと平良さんから「●●ちゃん元気でやってますか」と問いかえされた。防衛施設庁の船が単管の点検に近ついてくる。平良さんは落ち着いて防衛施設庁の職員や業者とやり取りする。悦美さんの息子さんが、辺野古の海上座り込み運動をまとめるリーダーの平良夏芽さんだ。非暴力徹底阻止でねばり強く闘うその姿は、夏芽さんから若者たちの心に力強い勇気を与えている。防衛施設庁の活動が深夜に及んだ今年の5月ごろの時期は苦しかったそうだが、いまは落ち着いているという。短い時間の単管やぐら滞在であったが、私たちは元気に声を掛け合って船へ戻ることにした。
9月11日の総選挙が終わるのを待っていたかのように、普天間基地の新たな沖縄県内への移設案が新聞報道される。沖縄県内では8割以上の世論が県内移設に反対である。小泉自民党の圧勝を受けて、日米両政府は様々な手段を駆使して県内移設を押し付けようとしている。沖縄の反基地運動を応援する本土の良心的な人たちに対して、しばしばウチナンチュウから「それではあなたの住む地域で基地を引き取ってくださいませんか」と問いかけられる。多くの良心的なヤマトンチュウは返答に困り言葉に詰まってしまう。
私は、かねてから普天間基地は海外移転ができないなら、東京都の硫黄島に沖縄海兵隊ともども全面移転すべきだと考えている。1990年代に米海軍艦載機の夜間訓練(NALP)が、三宅島民の島ぐるみ反対運動にあい、硫黄島に2600メートルの軍用滑走路を建設して、海上自衛隊と共同使用する形で、厚木基地に所属する米海軍空母の艦載機が訓練に使用している。一般民間人は立ち入りできない特殊な島である。太平洋戦争末期には、沖縄戦に先立ち日本軍と米海兵隊が戦った激戦地でもある。硫黄島、グアム、ハワイまで在沖縄米軍を押し返す日本の国内世論を東京から巻き起こすこと。「硫黄島移設案」により東京が問題を引き受けること。それが私の考える辺野古への答えなのである。(9月20日記)
(以上、沖縄平和ネットワーク会報『根と枠』第52号(2005年10月25日発行)より転載)